プライバシーとブロックチェーン
全部見えるのに、私は守られる。その両立の技術
姉妹編の教材「JPYCと資金の透明性」では、ブロックチェーンという「みんなで持ち合う帳簿」の上では、お金の流れが誰にでも見える、という話をしました。この販売所の料金箱が公開売上台帳を掲げていられるのも、その性質のおかげです。
ただ、読み終えて、こう感じた方もいるはずです。
「透明なのは立派だけど……自分の財布の中身まで全部見られるのは、ちょっと困る」
その感覚は正しいです。給与明細を玄関先に貼り出して暮らしたい人はいません。この教材では、「全部見える帳簿」と「個人のプライバシー」という、一見すると水と油の2つを、技術の世界がどう両立させようとしているのかを紹介します。主役は、ゼロ知識証明という、少し不思議な名前の技術です。
アドレスは本名ではなく、ペンネーム
まず、前回の復習から。ブロックチェーン上の口座番号にあたるものをアドレスと呼びました。0xから始まる文字列で、取引記録にはこのアドレスが刻まれます。氏名や住所は刻まれません。
つまりブロックチェーンの世界は、実は「丸裸」ではありません。全員がペンネームで活動している状態に近いのです。ペンネームで小説を書き続ける作家を想像してください。作品(取引)はすべて公開されているけれど、作者の本名は書かれていない。この状態を仮名性(かめいせい)と呼びます。「匿名」と似ていますが、微妙に違います。匿名は名前が「無い」こと、仮名は「別の名前がある」ことです。
そして、仮名には弱点があります。作品を全部並べて読めば、作風や話題から「この作家、正体はあの人では?」と推理できてしまうことがあるのです。ブロックチェーンでも同じで、あるアドレスの取引履歴をすべて眺めれば、行動パターンから持ち主を推定できる場合があります。たとえば、SNSで「この料金箱に投げ銭したよ」とアドレス付きで投稿すれば、その瞬間、ペンネームと本名がつながります。
全部見える帳簿の上では、一度つながった名前は、過去にさかのぼって全部つながる。 これが、ブロックチェーン時代のプライバシー問題の核心です。
プライバシーは「やましい人」のためのものではない
ここで一度、立ち止まって考えたいことがあります。「見られて困るのは、悪いことをしている人だけでは?」という意見についてです。
部屋にカーテンを付けるのは、部屋で悪事を働くためではありません。医療の記録や給与が秘密として扱われるのは、それが犯罪の証拠だからではありません。何を、いつ、誰に見せるかを自分で決められること。それがプライバシーであり、ごく普通の生活の前提です。
お金の話は特にそうです。あなたの全支払い履歴が公開されたら、収入も、生活圏も、支持する団体も、健康状態すら推定されてしまいます。透明性は素晴らしい道具ですが、個人のすべてに適用されるべきものではない。「組織のお金の流れは透明に、個人の暮らしはそっとしておく」——このバランスをどう技術で実現するかが、この分野の長年の宿題でした。
知っていることを、見せずに証明する — ゼロ知識証明
その宿題への、最もエレガントな回答がゼロ知識証明です。1985年に理論が発表された、れっきとした数学の成果です1。
言葉はいかめしいですが、やっていることはこうです。
秘密そのものは見せずに、「秘密を知っている」「条件を満たしている」ことだけを証明する。
例え話をひとつ。「ウォーリーをさがせ!」という絵本があります。人混みの絵の中から、赤白ボーダーのウォーリーを探す遊びです。あなたはウォーリーを見つけたとして、それを友人に「見つけた場所は教えずに」証明できるでしょうか?
こんな方法があります。絵本よりずっと大きな厚紙を用意して、ウォーリーの形にだけ小さな窓を開け、絵本の上にかぶせます。窓からはウォーリーだけが見える。でも厚紙が大きいので、絵本のどのあたりを見ているのかは分かりません。友人は「たしかに見つけている」と納得しますが、場所という秘密は守られたままです。
もう少し実生活に寄せた例なら、年齢確認です。お店でお酒を買うとき、本当に伝えるべき情報は「20歳以上である」という一点だけのはず。ところが運転免許証を見せると、生年月日どころか氏名も住所も渡してしまいます。ゼロ知識証明が日常に実装された世界では、「20歳以上です」という証明書だけを提示して、生年月日は一切明かさない、ということが数学的にできるようになります。
ブロックチェーンの文脈では、これがこう使えます。「私は確かに正当なお金を持っていて、二重払いもしていません。でも、どの取引が私のものかは明かしません」——帳簿の検証可能性を保ったまま、個人の取引だけを覆い隠せるのです。
実際の技術たち — 理論から実装へ
理論は1985年生まれですが、実装が花開いたのはブロックチェーン時代です。
Zcash(ジーキャッシュ) は2016年に登場した、ゼロ知識証明で取引内容を隠せるお金です。基盤となったZerocash論文2では、zk-SNARK(ジーケー・スナーク)という方式が使われました。名前は呪文のようですが、「とても小さくて検証の速いゼロ知識証明」くらいに捉えてください。今ではこの技術は、プライバシーだけでなくブロックチェーンの処理能力向上にも広く使われる、業界の基盤技術になっています。
一方で、苦い教訓もあります。ミキサーと呼ばれる、多数の人のお金を混ぜ合わせて出どころを分からなくするサービスが登場しました。プライバシー保護に使う人がいる一方で、盗んだ資金の洗浄にも悪用され、代表的なサービスだったTornado Cashは2022年に米国財務省の制裁対象になりました3。「隠す技術」は、善良な人と悪意ある人を区別しない——この問題が、次の研究テーマを生みます。
その一つが、イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブテリンらが2023年に提案したプライバシープールという考え方です4。発想が秀逸で、ゼロ知識証明を使って「私の資金は、既知の犯罪資金とは無関係です」という潔白の証明だけを公開し、取引の中身は明かさない、という設計になっています。プライバシーの保護と、犯罪対策という社会の要請。この2つは二者択一ではなく、両立させる均衡点を探せる——という研究です。
日本円ステーブルコインの現在地
では、この販売所が受け取るJPYC(日本円に連動するステーブルコイン)は、この地図のどこにいるのでしょうか。
JPYCは法律(資金決済法)に基づく電子決済手段で、発行会社での本人確認を経て発行される、いわば「素性の確かな」お金です。ブロックチェーン上の移転記録は公開されるので、位置づけとしては透明性側に軸足があります。個人の支払いをゼロ知識証明で隠す、といった機能は現時点ではありません。
これは欠点というより、役割分担だと捉えるのがよいと思います。公的な性格の強いお金は検証可能性を重視する。その上で、個人のプライバシーを守る層(レイヤー)をどう重ねていくかは、世界中でまさに設計が進んでいる途中です。この教材で紹介した技術たちは、その設計図の候補なのです。
この販売所では、どうしているか
最後に、足元の話をします。この店の料金箱は「透明」を看板にしていますから、応援の記録(アドレス・金額・日時)は誰でも見られます。応援してくださる方には、その点をあらかじめ知っておいてほしいのです。
- 台帳に載るのはアドレスだけで、氏名が載ることはありません
- ただし、前述の通りアドレスは仮名です。ご自身のSNS等でアドレスを公開している場合、応援の事実が第三者に推定されることはありえます
- 「見られたら困る」と感じる方は、無理に応援する必要はまったくありません。棚の教材は全部無料で、読んでいただけるだけで十分うれしい、というのがこの店の建て付けです
透明性を掲げる店だからこそ、その裏返しであるプライバシーの知識も、棚の最初に並べておきたい——この教材は、そんな動機で書きました。
おわりに
「全部見えるのに、私は守られる」。矛盾のように聞こえたこの言葉が、ゼロ知識証明という数学の裏付けを持った、実現しつつある未来だと伝わったなら幸いです。
この教材が役に立ったと感じられたら、店先の料金箱からJPYCで応援いただけると励みになります。——もちろん、ここまで読んだ上で「今回は見るだけにしておく」も、まったく正しい選択です。それを堂々と言えるのが、この店の良いところですから。
このほか、ブロックチェーン全般の用語はethereum.org(日本語)、JPYCの一次情報はJPYC株式会社 公式サイトをどうぞ。
本教材の内容は執筆時点(2026年8月)の情報です。技術・規制の動向は変化が速い分野です。実務への適用は、必ず最新の一次情報をご確認ください。
参考文献・もっと知りたい方へ
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Shafi Goldwasser, Silvio Micali, Charles Rackoff, “The Knowledge Complexity of Interactive Proof-Systems” (1985) — ゼロ知識証明の原典。3人はこの業績等により後にチューリング賞(計算機科学のノーベル賞と呼ばれます)を受賞しています。 ↩
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Eli Ben-Sasson et al., “Zerocash: Decentralized Anonymous Payments from Bitcoin” (2014, IEEE S&P) — Zcashの基盤となったzk-SNARKによる秘匿決済の論文。 ↩
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米国財務省によるTornado Cash制裁の発表 (2022) — プライバシー技術と規制が衝突した象徴的な事例の一次資料。 ↩
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Vitalik Buterin, Jacob Illum, Matthias Nadler, Fabian Schär, Ameen Soleimani, “Blockchain Privacy and Regulatory Compliance: Towards a Practical Equilibrium” (2023) — プライバシープールの提案論文。公開後数日で25万ビューを集め、大きな議論を呼びました。 ↩